2015年3月9日

河合隼雄著『ケルト巡り』合理性だけでは人は生きづらいと教わる

故河合隼雄氏の著書『ケルト巡り』は、最近の問題意識と見事にフィットした。
ひとは合理性だけでは生きづらい、ということだ。




河合氏のアイルランド訪問録

2000年初頭に河合氏はアイルランドを訪問し、
NHK番組「ハイビジョンスペシャル 河合隼雄 ケルト昔話の旅」として放送された。

この本は番組では伝えきれなかったこと、伝えづらかったことを書物にしたものだという。
それもそのはず、現在の『ドルイド』や『魔女』が登場するのだ!

なぜアイルランドなのか?

本書は、河合氏の問題意識に基づいている。
  • 近代以降、理性や合理性が重視され、社会は発展してきた。
  • しかし、理性でコントロールできない分野があり、【無意識】の理解が重要なのではないか。
  • 無意識を理解するには【物語】が鍵になるのではないか?
  • アイルランドには、近代化されていない物語や文化があるのではないか?
  • よし、アイルランドに行ってみよう!
という出発点から
  • アイルランドの民話の物語の紹介
  • 民話を収集・研究しているダブリン大学民話学部(!)のマッカラシー教授との対談
  • 自然を大切にする現代ドルイドの儀式への参加
  • イギリスの魔女との対話
へと続く。

心に残った言葉

特に心に残った箇所を紹介する。
いまグローバリゼーション時代などと言われ、日本もそれにワーッと乗って喜んでいるが、日本人はその流れのなかで、いまあげたナバホの例を地でいくかの ように、自らが持っていた知恵や文化を忘れてしまっている。挙げ句の果てに、欧米に何とか追いつこうとするうち、結局は欧米が先頭にいるその列の最後尾につくしかなくなってしまった。なぜなら、欧米人的な強さ(利己主義ではない個人主義や、社会・組織と対等な確立された「個人」)を日本人はまだまだ身につけていないためである。
一部のスポーツ競技でも日本にとって不利なルールが適用され、苦しむことがある。
個人も同じように、不利なルールに巻き込まれない方法を考えたいところだ。

いま村上春樹やよしもとばななの著作は、かつて川端康成が「東洋の不思議な国」を知るために読まれたのとは違い、現代の生活のために、いまを生きるために読まれている。世界の人々にリアリティをもって迎えられているのである。つまり彼らの著作は普遍性を持つ現代のおはなしであり、いわゆる近代的自我を中心にして書かれたものではない。この二人は無意識的なところに入り込んでいく力を持ち、しかもそれを物語にする力を持っている。そうして生み出された作品は世界の人々に対して意味を持ってくる。
もしかしたら、世界中がグローバリズムに苦しんでいるのだろうか。
そのとき、【無意識なところ】を意識することが、大切なのかもしれない。 

無意識の部分が現代社会を生きる者にとって必要な理由は、現代では意識が合理的・科学的なもので固められているからである。かつて人々は、いまより非合理的なものを入れ込んだ意識を持って生きていた。神様仏様の存在を信じ、死んだらあの世に行くと思っていた。そういった感情が支配する社会は、安定はするが進歩はしない。それに対して、意識の部分をむやみに強化し、合理的に鍛えてきたのが近代から現代にかけての欧米社会であり、その影響下にある多くの国々の社会、人々である。
近代西洋が生みだした自然科学だけでは、もはやダメなのである。それを超える世界観、人生観を持っていないと、人は幸せにはならない。広い世界観のなかの一部の強力な部分として科学的な見方はある。それを含めたさらに広い世界観を持っていればいいのだが、科学技術的なものさしで世界のすべてを理解しようとすると失敗する。そこが難しいところだ。
合理的だけでは人は生きづらい。
意識と無意識、合理と非合理をバランスよく取り入れることを、河合氏は勧めている。

ドルイドや魔女とは

この本のなかに登場するドルイドとは、かつて自然を崇拝していたドルイドとは違い、自然を大切にするという考えかたを取り入れている現代ドルイの姿。
自然もまた合理ではない存在で、ひとを癒す力があるのだろう。

そして、この自然の考え方で、驚いた箇所がある。
英語のネイチャー(nature)という言葉が欧米から入ってきたとき、これをどう訳すかについて、日本人はひどく困惑したという。
英語の「ネイチャー」は、人間という絶対的な存在とは区別される対象である。ところが、日本古来の考え方では、人間も「ネイチャー」の一部である。人間を除外した「ネイチャー」という概念は、日本には存在しなかった。これを曲げて、仕方なく「自然」という言葉をあてたのだが、もともとこの言葉は副詞で、その頃の日本語では「自然に」という形でしか使われていなかった。
日本では、ひとと自然が一体化していたのが、切り離されたというのだ。

同じような話を建築の世界で聞いたことがある。
日本の家には、家のなかとも外とも言い切れない領域として【縁側(えんがわ)】があるが、欧米では家と外が明確に区切られているという。

残念なことに、現代の家には縁側がなくなってきている。
ぼくらのこどもの世代は、縁側でポカポカ昼寝するなんて、知らずに大人になるのかもしれない…。

ぼくがアイルランドを好きな理由


実は、ぼくはアイルランドが好きで、旅行で3回訪れた。

昔からケルトの神話や民話が好きで、一度行ってみたかった。
ゴツゴツした岩だらけの荒涼とした風景のなかで出会ったひとびとが、とにかく親切でフレンドリーで意心地がよかったのだ。

フラフラした観光客をかわいそうに思ってくれたのかしれないけど…。

河合氏は、アイルランドには、
会えば特に何か言わなくても気心が通じる「日本人的感覚」
が通用するという。

だから、意心地がよかったのか!といまさらながら思っている。

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